医療と人

The Reportage

小口弘毅さん

小児科医
元北里大学病院新生児集中治療センター主任
2000年 おぐちこどもクリニック開設
2025年 同クリニック閉院

小口さんに話を聞かせてほしいと言うと、「近くにうまいピザ屋があるから、今度、昼を食べながら」ということになった。
店に着くと、彼はもう来ていて、グラスワインを飲みながら待っていてくれた。

最近のことをひとしきり聞いたあと、内科でも外科でもなく、なぜ小児科を選んだのかと尋ねた。
「子どもは未来だから。それに、可愛いじゃないですか。」

少し間をおいて言った。
「振り返ってみて、小児科医、それも新生児科医になってよかった。そう思っています。」

高校二年の秋、大学に行って歴史を学ぼうと思っていると父親に相談したところ、歴史では食えないから医者になれと言われた。
神奈川県の大学に医学部が新設されると聞き、受験して合格した。浪人してもっと有名な大学を目指したいとも思ったが、「せっかく合格したのだから行ってはどうか」と父親に勧められた。

入学して後悔した。
新設の学部のせいか、周りは変わった人が多く、教授たちもやたらと若かった。しかし、時間が経つにつれ周りとも馴染み、若い教授たちの熱い想いに触れ、医学が楽しくなった。

何より、ある新生児科医の恩師との出会いが、彼の情熱を奮い立たせた。あの先生のようになりたい、そう思い大学病院に就職。それから四十八歳で自身のクリニックを開業するまでの25年間、産まれたばかりの命と関わり続けた。

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北里大学病院NICU

「楽しい仕事だよ。」

絶望的な状況の子どもが、自分たちの瞬時の判断と処置で助かる。看護師たちと万歳したこともあった。無事に退院した子と外来で会った時は、特に嬉しかった。

力を尽くしても障害が残り、申し訳ないと思うこともあった。
「どうしても助けてほしかった」と言われて親と別れることもあった。

それでも新生児科医として働き続けたのは、子供を集中治療室から出し、陽の光や風のそよぎに触れさせたかったからだ。
この世は美しいと、伝えたかった。

開業後、集中治療室を退院した子どもたちの発達外来を立ち上げた。大学病院での経験からだった。赤字部門だったが、心理士を雇い、後遺症のある子や自閉症の子の親の相談に乗った。初診は診療後に自ら診た。一人に1時間かけることもよくあった。

保険診療だけでは足りないと感じ、同じビルの別の階を借りて、看護師たちと子育て広場も作った。看護師といえば、クリニックの看護師達はみな、大学病院でともに万歳し、ともに落胆した、あの看護師達だ。開業時、大学病院をやめていた彼女たちに声をかけると、皆喜んで集まってくれた。

クリニック待合室

去年、小児科医になって50年の節目に、クリニックを閉じた。元気なうちに引退して、余生を楽しみたいと思ったからだ。
彼を支え続けた看護師達も、同じ気持ちでいた。

しかし、続いている。
難病や障害のある子どもたちの宿泊施設「あおぞら共和国」。その発展に尽くすことが、彼の小児科医としての、最後のミッションだ。それは、医学生時代に彼を奮い立たせた、あの恩師から引き継いだ仕事だ。
五十年の情熱が、冷めずにいる。

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小口さん(右)が新生児科医を目指すきっかけとなった恩師 仁志田博司氏(東京女子医大名誉教授、新生児医学、写真中央)とともに。左は親友の衛藤光氏(元聖路加国際病院皮膚科医長)

文・吉川武志